地獄太夫(じごくたゆう、生没年不詳)は、室町時代に実在したとされる伝説の遊女。
梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星(おとせ)という
如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者に抱えられた。現世の不幸は前世の戒行が拙いゆえであるとして、自ら地獄と名乗り、衣服には地獄変相の図を繍り、心には仏名を唱えつつ、口には風流の唄をうたったという。
一休宗純と師弟関係にあり、あるとき地獄太夫が「出家して仏に仕えることが出来れば、せめて救いがあるものを」と嘆くと、一休禅師は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と諭したといわれ、その後も自己犠牲による悟りを求め、辞世の句と言われる
「我死なば焼くな埋むな野に捨てて飢えたる犬の腹をこやせよ」
の一句に分かるように、究極の自己犠牲を貫こうとした